自分が繊細だとか、生きづらい人生を歩んでいたなんて全く気づかなかった。
でも社会人になって看護師として働き始めた頃、本格的なうつ病を発症していたのは、この自分の「繊細さ」が理由だったんです。
自分自身がどれだけ繊細なのかに気づかなければ「これぐらい我慢して当然」だとか、「みんなと同じように出来ないとダメ」だと思い込んでしまう。
自分を追い込まないためには、自分自身の一種の「障害」を受け入れて、自分の居るべき場所に身を置かなければなりませんでした。
「心の落ち着く環境」が私の居場所だった
社会人に成り立ての時って、社会の当たり前が分からないから「(上司、先輩に)言われるがまま」なところってありますよね。
私が新人看護師だった頃は『上の人の言うことは正解』という思い込みから、
「仕事が遅くてサービス残業をするのは当たり前」
「休みの日でも休まず勉強しなければならない」
「どんな仕事でも、それを続けてこそ一人前になれる」
と本気で思いながら仕事をしていました。
ところが、
ミスがあれば厳しく監視され、厳しく監視されればミスを繰り返す。
出来ない自分を責めまくり、憂鬱な気持ちばかりが積み重なる・・。
そして、そんな状況が続いた結果、
最終的には何のために仕事をしているのか、自分は何のために生きているのか・・それさえも分からない状態にまで、自分を追い込んでいました。
じゃぁ同期の新人看護師がみんなそうだったかというと、そうではありません。
自分らしい働き方を見つけて自立していく人や、自分の苦手なことを上手にアピールしながら先輩のサポートを受ける人、コツコツ勉強しながらスキルをモノにしていく人もいました。
それは「その人に適した環境」だったからこそ、自分なりの働き方を見つけて、仕事をこなすことができていたのかもしれません。
私は最終的にその病院を離れることになりましたが、ある意味離れてみて分かったことがあります。
それは、自分にとって適した環境は
・「厳しい監視」ではなく「優しく見守ったり、寄り添って教えてくれる」人がいる
・時間や業務に追われず、心にゆとりを持って仕事ができる
・自分の体に無理なく働ける職場
というもの。
その後に勤めていた病院も、今働いている老人ホームも、どちらも自分の求めていた環境そのもの。
人間関係で言えば2つめの病院には意地悪な先輩もいたし、それなりに辛いこともあったけれど、それでも自分を追い込むほどの鬱を発症しなかったのは、環境そのものが自分に合っていたからなんだと思います。
意地悪な先輩や苦手な人がいたとしても「自分の心が落ち着く場所」が全て。
一部の苦手な人がいても、それ以外の人間関係や働きやすさに恵まれていれば、誰かの嫌がらせが気にならなくなるものなんだと驚きました。
HSPという「隠れアスペルガー」から見出されたもの
本当の自分を知るキッカケとなったのは、自分で事業を起こしたことでした。
お世話になっていた、ある女性経営者に
「ナツミさんはこれから何がしたいですか?」
「ビジネスで稼いだら、何を手に入れたいですか??」
と聞かれた時に何も答えられなくて、悔しさと悲しさと、情けない気持ちでいっぱいになり、気づいたらその人の前で大泣きしていたんです。笑
普通に考えたら、そんなことで泣く??と思うような内容なんだけど、「誰かの組織の中でビジネスをやるのはもう辞めよう」と思っていた時期が私にとって大きな過渡期だったからこそ、その些細な質問が心に刺さったのかなって思います。
そしてその答えを見つけるべく始まったのが「自分探し」。
その時に出会ったkeikoさんの「お金、愛、最高の人生 リッチな人だけが知っている宇宙法則 (大和出版)」という本を機に『ギフト(才能)』という言葉との縁を感じて今のギフトプロデュース(才能を見つける仕事)を始めることになり、
その後すぐに「HSP」「隠れアスペルガー」という言葉と出会って、自分のやっていることに確信が持てるようになりました。
HSPといえば、
・ネガティブな言葉や感情、プレッシャーに弱い
・人の気持ちが分かりすぎる
・勘が鋭い(相手の痛いところを無意識に突いてしまう)
・話をするのに夢中になりすぎる
というところがありますが、
別の見方をすれば
・人の心の痛みに共感できる、危険から身を守ることができる
・誰よりも深く相手の気持ちを理解し、共感することができる
・優れた直観力を持っている、相手に気づきを与えることができる
・話をするのが好き、何かを教えることが得意
ということでもあります。
自分に自信が持てなかったり、ミスを繰り返して空回りしてしまうこともあるかもしれないけれど、私が思うに、それは「自分にとって向いていることが上手く発揮されていない」だけ。
・自分にとって向いていることは何なのか?
・自分の特技を活かすべき環境はどこにあるのか??
それをきちんと考えれば、自然と自分の居場所も見つかってくるものです。
才能を活かすべき所に、神は宿る
活かすべき才能が活かされた時、人は神がかったことができるようになります。
私の場合『人に教えて導くこと』をテーマにその能力が発揮されるらしく、特に繊細な人たち(発達・精神障害者も含む)を対象に心の癒し方や、能力の活かし方について話をしていると、意識がゾーンに入って自分でも驚くような話をペラペラ喋っていたりします。
しかも自分で話したことなのに殆どその内容を覚えていなかったり、相手の心に届くような話し方(わざと怒ったり、笑ったり、悲しむような仕草で相手の感情を動かしながら話すなど)をしていたりもします。
そして、どんなに厳しい言葉(説教染みたこと)を話して相手を怒らせたり悲しませることがあったとしてもそれは一時的で、最終的には感謝されることの方が多い。
これはどう考えても、普段の私の力でやったというより「神がかったこと」をしていたという表現の方が正しい、と思うのです。
私は普段から人に何かを教えたり話すのが好きで、それに使命感が重なると「見えない力」が加わるような感覚が出てくるのがわかります。
「繊細な人たちを生きづらさから解放すること」が私の役割であり、自分にとっての使命のようにも感じているのですが、これに繋がる行動をしている時にゾーンに入りやすいということは、きっとこれが自分の才能の活かしどころなんじゃないかなって思うんですよね。
このブログを読んでいる方にも
・これをやると時間を忘れてしまう
・他の人は難しいって言うけど、私には簡単にできる
・自分がやるといつも感謝される
・なぜ上手くいくのかわからないけど、得意なことがある
というものがあれば、ギフト(才能)の芽はすでに出ているのかも。
自分の役割を見つめ直してみると、自分が本来活かすべきものやどうしても人に役立てたいことが見つかるかもしれません。
ココナラはじめました♪
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